マイルストーン
お久しぶりです。クリタです。
どうやら本日は、昨年のLIVEPLANET合同オーディション最終審査からちょうど一年の日のようです。
クリスマスや誕生日が来るたびに「歳をとる周期が早くなった気がする」なんて嘆いておりますが、オーディションに関しては「まだ一年しか経っていないのか」という気持ちが強いです。
とはいえ遥か昔の出来事のようにも感じられるから不思議です。あの目まぐるしく過ぎた2ヶ月間は夢だったのではないかと、ふと考えることすらあります。
それくらい今の私はあの頃と違う生活を送っています。勉強して、勉強して、時々ポーカーして、あとはぼーっと考え事。それもまた楽しいのだけれど。
オーディション期間中は今思うと、大学に入学してから最もエネルギッシュに何かと向き合えた経験でした。他者からどうみられているのか、なにをすれば他者に響くのか、忙しい日々の間に自分についても他者についても理解を深められた期間でした。22歳はまだ若い、そう言ってもらえることも多々あります。ただ私個人の実感はそれとは違うように思えるのです。何かに全力で打ち込むことをなんとなくカッコ悪いことかのように思って、現状を変えることをせず不満ばかり漏らす。大学生のほとんどはきっとそんなもんで、そんな中途半端な年齢において、純粋に頑張れた経験はやはり貴重であったなと考えています。
他方、色々な意味での難しさを感じた経験でもあります。努力は報われないこともある、自分が努力だと思ったことが努力ではないこともある、報われないことに真正面で向き合う難しさ、その中で努力し続けることの大変さ。
素直に、糧だなあと思います。思うのですが、こんなことを続けていると少し疲れてしまうこともあって、いわば今は勝手に小休止の段階に入っちゃってるのです。応援してくれてる方々と向き合うのが怖くて、机と向き合ってます。だめだね。
勉強が落ち着いて(または飽きて)もう一度新しい一歩を踏み出したいと思える時がきたら、一年前の今日の日のように、また見守ってもらえると嬉しいです。
新居歩美という人
矮小な人間であるがゆえ、平素は自分と他人を比べ、一つでも優っている(と思える)部分を見つけると手を叩いて喜ぶような人生を送っている。器の小ささだけは誰にも劣らないと言い換えることができよう。
が、時たま「この人には敵わない」と思わざるを得ない人間と出会う。そんな人と遭遇するやいなやたちまち運命だと舞い上がり、かの人への憧れに頭が埋め尽くされる。
2020年の運命の出会いは、新居歩美だった。
透き通るような白い肌、色素が薄くてうるうるとした瞳、神からの授かり物としか思えないほど艶やかな黒髪。自分が受けているオーディションの面々の中に彼女を見つけた私は思った。あ、これ無理ゲーやん。
『キャンディ・キャンディ』という漫画をご存知だろうか。新居歩美のビジュアルは、作中きっての美少女アニーを彷彿とさせる。とにかく守ってあげたい感が異常なのである。
彼女がビジュアルだけの女の子であればこんなに好きにはなっていない。むしろ、彼女の魅力の本質は内面にこそあると感じる。
最初に驚いたのは配信での切り返しのうまさだった。オーディション開始当初から圧倒的な人気を誇った彼女の配信には多くの人が訪れ、多くのコメントで溢れていた。彼女は当時16歳ながらそれらをうまく捌き、かつ真摯に、楽しそうに画面越しのファンと接していた。
言語センスも独特である。「ウバフレ」を最初に聞いたときはその語感の良さに舌を巻いたものである。
本当に彼女のことが好きになったのは、オーディション期間中のステージ審査でのことであった。
ほんとに私音痴なんよ、と始まる前に苦笑いしていた彼女がステージに上がった途端、がらりと空気が変わった。『白い雪のプリンセスは』のイントロに合わせてひらひらと舞う彼女に私は目が釘付けになった。歌が上手いとかダンスが上手いとか、関係なしに新居歩美はステージが似合う女の子だと、そのとき感じたのだ。
舞台を降りた彼女は持ち前の人懐っこさで違和感なく皆の中心に収まった。のちの最終合宿審査でも感じたことだが、彼女は人付き合いにおいても天賦の才があるのではないか。いつでも気がついたら彼女を中心に輪が生まれていた、ような気がする。
彼女はアニーではなかった。天真爛漫で人を惹きつけてやまない『キャンディ・キャンディ』の主人公、キャンディであった。
自分は新居歩美を主人公とした物語の脇役であると言われても納得してしまいそうなほどに彼女は「主人公」なのである。
新居歩美はその後アキシブprojectのメンバーとしてデビューし、先日早くもTwitterのフォロワー数1万人を達成した。留まるところを知らない勢いで躍進し続ける彼女を、これからもひっそりと見守っていければと思う。
新居歩美💌アキシブproject新メンバー(@aksb_nii)さん | Twitter
イブに一人で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を観た話
本にしろ音楽にしろ、思い出と紐付けされたものは特別に愛着が湧くものだ。
中学の頃、尊敬する人におすすめされて読んだ田山花袋の『蒲団』、大学一年の頃、劣等感と孤独感で鬱屈としていた時に赴いたスキー場で延々と流れていたhump backの『生きていく』
心の引き出しに大事にしまってあるそれらは、ふとしたきっかけに取り出して眺めたくなる宝物である。
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21歳のクリスマスイブは、恋人はおろか家族とも過ごさない一日だった。
例年母が腕によりをかけて作るクリスマスフルコースも、帰省ができず食べられない。
無神論者なんだと意地を張ってみても、世間全体が浮き足立つこの特有の空気の前には全面降伏せざるを得ない。端的に言えば、寂しいのだ。
バイト帰りに雰囲気だけでも味わおうかと新宿を歩く。ふと、ピカデリーの前で立ち止まる。突如、「今この時間にやっている映画をなんでもいいから観る」案を思いついた。
何がやっているのかと上映スケジュールを確認する私の目に飛び込んできたのは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー〈4Kニューマスター〉』だった。言わずと知れた超名作である。恥ずかしながら、この歳になってもついぞ観たことがなかった。観よう観ようとは思いつつも今まで遠ざけていた。というより、近づけなかった。これはわたしの考えだが、映画はそれが名作であればあるほど手を出しにくい気がする。今更感に手をこまねいてしまうからなのか、単に私が逆張り人間だからなのか。
ただしそれは、あくまで日常における話。イブという特別な日に、たまたま一人で、たまたま目に留まった映画館で、たまたま以前から気になっていた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を上映している。これを運命と言わずしてなんと言おう。
上映開始時間は15:40。現在時刻は15:45。今から行けば、間に合う。
小走りで劇場へと向かった。はやる気持ちを抑えつつ手早くチケットを買い、スクリーンへ。
ぶれぶれですね
300名ほどは入るだろうと思われる劇場だっだが、客は30人に満たないくらい。人いきれでむせかえる中歩いてきたので、ほっとする。
期待感と、自分の突飛な決断への不安を抱えながら、映画は始まった。
最高でした
な、なにこの面白さ…終始わくわくしっぱなし……手に汗握りながら映画を観るなんていつぶりだろう……こんな気持ちにまだ自分がなれるだなんて……
今までちんけなプライドのために観てこなかった自分、愚かにも程がある……
映画の詳しい感想なんて書けない。何を書いても陳腐に思えてしまう気がする。でも、この興奮を誰かに伝えたい。
ということで今、劇中歌をかけながらこのブログを書いています。余韻が冷めないうちに、今日のことを記録しておかないとと思って。
側からみればただのクリぼっちでしたが、引き出しの宝物を一つ増やせた、私にとっては特別なクリスマスでした。
暇人
散歩には衝動買いがつきもの。切っても切れない関係である。散歩の延長線上に衝動買いがあると言ってもいい。
散歩の際はいつも新しい出会いを期待する。散歩が性に合うのは、極端に狭い人間関係の中で生きているせいなのだろう。見知らぬ街をどきどきしながら散策するのもいいが、見知った街の思わぬ魅力をみつけた時もまた胸が躍る。
途中、無性に入りたくて仕方のなくなるお店に出会ってしまうことがある。オカルトは信じないが、こんな時にはなにやら引力めいたものを感じる。
先日は骨董屋に入った。とくに何か買おうと考えていたわけではない。が、すぐに一人用土鍋が目に入ってきた。こうなるともう結果なぞ分かりきっている。一応は脳内で買おうか買うまいか、形ばかりの押し問答を繰り広げるが、5分後には片手に土鍋、片手に財布を持ち会計していた
少しの後悔を胸に帰路に着く。しかしそんなことよりも、今や自分のものとなった素敵な戦利品がどのように日常を変えてくれるかへの期待が勝る。
こんなことを友人に話すときまって「暇だね」と揶揄される。わたしもそう思う。そう思いつつ、現状にそこそこ満足してもいる。おそらくこの時間の過ごし方が持続可能な自分のご機嫌取り法であると感じているからだろう。
これからどれだけ忙しい日々を送ることになるとしても、定期的に「暇」な1日は送りたいものである。
ここ最近の話
ここ一ヶ月、精神状態が思わしくない。
1浪の末京○大学さんに落とされた後のあの絶望の日々の次くらいに思わしくない。
こういうこと、きっも曲がりなりにもアイドルを目指す人間が言うことじゃないんだろう。でもここまで不安定な時期も珍しいので、せっかくだから記録に残していこうと思う。てかあれよ、言語化したらすっきりするいつものデトックス。そんな感じ。
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始まりはなんといっても自分が3ヶ月全力を傾けていたオーディションに落ちたこと。お先真っ暗(実際そんなわけないんだけど)、え、ここからどうする????普通の大学生にすんなり戻れる?????いろんな事柄が頭をぐるぐる周回していきました。
ただ回復は案外早かったんですよね。冷静に考えても、同じオーディションで受かった子たちはわたしの数倍数十倍も時間をかけて夢を叶えるために努力を積み重ねてきたようにみえます。大学に入って勢いでこの世界の門戸を叩いたわたしが最初から肩を並べられる方がおかしいんです。
回復したわたしは思いました。
そうだ、人に会おう。
オーディション期間中はオーディションに全力投球で、あまりだれかと会う時間を設けていませんでした。次にアイドルになるにしても期間はあくし、リフレッシュ期間としてとにかくいろんな人と会おう。
2週間、本当に色んな人と会いました。数少ない親友と呼べる人、高校時代の友人、数年ぶりの旧友、などなど。充実していました。その結果どうなったか。
太りました
そらそうですよね。二週間ほぼ毎日外食、お酒だって飲んでましたから。当然の帰結。
でもわたしはそれはもうびっくり仰天して、そして焦りました。アイドルを目指すものが太るのってやっぱりよくないじゃないですか。「ぽっちゃり系アイドル」は個性でも、「ぽっちゃりしたアイドル未満の一般人」はただの怠慢になってしまう。
ほんでね、ダイエットせねばと決意したんです。
YouTubeやらなんやらを漁って調べて、1日の摂取カロリーが1050になるように設定しました。ここらへんからおかしくなってきたんですよ。食べ物はカロリーと成分表示を見ないと買えなくなり、脂質と糖質が10g以下でないと食べてはいけない気がしてしまいました。でも摂取カロリー1050って基礎代謝より下なんですよね。体が常に飢餓状態に陥って、コンビニの狭い店内を30分徘徊するなんてこともおきました。ストレスフルな毎日。そして反動として始まったのが…
爆食でした。
深夜4時に眠れなくなってアルフォートの大袋をたいらげてしまったり、冷凍にくまんを4つかきこんだり、とにかくありえない量を食べるようになりました。もはやその行為は"食べる"ではなく"胃に押し込む"でした。
許容量をはるかに超えたパンパンのお腹を見ながら「なにしてるんだろう…」と自責の念に苛まれ、その分過度に制限し、また爆食。地獄のループ。
このままだとおかしくなると気づいた頃には、体重がプラス4キロ増えていました。わたしの身長で短期間で4キロは異常な数字です。
友人に相談して無茶なカロリー設定をやめて、やっとマシにはなりましたが、未だ爆食はついてまわります。「買わなきゃいいじゃん」そんなことはわかってるんです。でも気がついたらフラフラっといらないものを買ってしまっているんですよね。
こうなってしまった根本原因は「アイドルという目標の出口が見えないこと」これにつきます。だから、今受けているオーディションを最後にすると決めました。逃避でもあり、自己防衛でもあります。上記の経緯で太ってしまった体は戻せていないし、勝算はおそらくそんなにありません。でも最後の最後、全力で頑張ろうと思います。
見守っていただけると幸いです。
自己中心的喫茶店考
人間は、好きなものであればあるほどこだわりを強める傾向にあると感じます。
一般的に恋人と長く付き合うほど相手の嫌なところが目につくと言われます。思うにそれは「好きな人にはこうであってほしい」という型に相手をキチキチと当てはめようとしてしまうからなのかもしれません。
知らんけど
わたしの場合は強くこだわりを持つものの一つに「喫茶店」があげられます。
幼少期から両親と買い物に行く際喫茶店で休憩をとるのが恒例となっていました。昔から喫茶店というものには馴染みが深いのです。
ただ、本格的に喫茶店を巡り始めたのは大学に入学してからでした。おそらく一人暮らしの寂しさを埋めるものを探していたのでしょうね。
今回は私が一人で黙々と喫茶店を巡る中で得たこだわりポイントを共有する記事です。とっても自己中心的なこだわりなので、繊細な方はここでUターンすることをお勧めします。
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①飲み終わった/食べ終わった食器をさげない
飲んだ後にすぐカップを下げられるのが嫌なのです。これは後にも通じる要素なのですが、喫茶店の珈琲が少々高くてもいいと思えるのは、美味しい珈琲を飲みたい以上にあの独特な空気を吸いにきてるから。なんなら溺れたくてきてる。珈琲代には「空気代」が含まれていると思ってるし、それで採算が取れないのなら上乗せしたって構わない。だからカップは帰るまで下げないでくれ。否が応でも現実に引き戻されてしまう。喫茶店の中の止まった時の流れにいつまでも身を委ねていたいのよ。(もちろん何時間も居座ってしまった場合には話は別でしょうが)
まあ早く洗っちゃいたいよね…コーヒーこびりつくとめんどくさいし…ごめんなさい…
②カップに拘りが感じられる
不思議なことに珈琲は飲み口の角度や厚みによって味が変わる。私が好きなのは末広がりのカップ。イメージは静嘉堂文庫美術館所蔵の油滴天目です。あれでお茶を飲んだらきっと素晴らしく美味しく感じるのだろう…
ただ、自分の好みに合っていなくても最悪いいんです。お店の拘りが感じられたらそれで。柄でも重さでもなんでもいい。店主のこだわりでぶん殴ってほしい。これが望みです。
③客も空気の一部として溶け込んでいる
たまーにあるじゃないですか。スマホ禁止、おしゃべり禁止の喫茶店。あれがいいとは言えませんが、少しだけ共感できます。繰り返すように喫茶店では珈琲の味と同じくらい雰囲気が大事だと感じているので、その空間を構成するもの一つ一つが調和を保っていてほしい。客もまたしかり。おしゃべりがだめだとかスマホがだめだとか極端な話ではなく、例えば隣の席の人が大声で「昨日飲み過ぎたんよアッハッハ」なんて話してたら興醒めだし、スマホからガンガン音漏れしている人がいたらそそくさと飲み干して帰ってしまうでしょう。
ただこれは平たくいうと最低限のマナーってだけなんですよね。喫茶店に限る話ではない。
④トイレまで世界観が保たれている
これほーーーーーーーーーーーーんとに大事だと思ってる。せっかく店内がアンティーク調にまとめられていて、珈琲も美味しいのにトイレに入ったらむきだしの消臭力とかキレイキレイがおかれてたら一気に"醒める"。私はお店を出てしばらくしてもまだ夢の世界から醒めないような、ふわふわした気分を保ち続けていたいんです。喫茶店に足を踏み入れるその瞬間から、お店を出た時のこんな気分を期待しているのです。それがトイレの内装一つで台無しになってしまう。我ながら厄介な性格をしていると思うけど、譲れない部分です。
細かいことをあげるとまだまだあるのですが、主にこの4つをお気に入りの喫茶店選びの指標にしています。自分にとって喫茶店はお金で買える現実逃避空間で、そうでありながらも今を生きる活力を与えてくれる場所です。大好きなものにはとことん拘る面倒な人間でい続けたいと思う今日この頃でした。
最後に、この本のリンクを貼っておきます。
名だたる作家たちが珈琲に関するこだわりを書き連ねている随筆集です。珍しく私が何度も読み返したいと思えた本でした。この本を一冊抱えて喫茶店に行くって考えるだけで、ちょっぴりキザだけど楽しい気分になれる。
「わかった気」では終わらせない本
ある日、父から「そちらに本を送った」と連絡が来た。
おすすめの本を教えてもらうことは多々あれど、わざわざ送ってくることなど稀である。それも、「すぐ読め」とのこと。
ファザコン、もとい父を尊敬している私がここまで熱弁されて読まないわけがない。早速届いてすぐに読み始めた。それが『現代経済学の直観的方法』(長沼伸一郎)であった。
結論から言う。
めちゃくちゃ面白い
ただし、今まで経済学をほとんど勉強してこなかったわたしの感想であることは踏まえて欲しい。どのくらいの知識レベルだったかといえば、「金利ってナンデスカ」このくらい。
実際この本は「経済学の知識はまるでないが読書レベルの高い」人間を対象としているらしい(前書きより)。読書レベルが高いかはさておき、習慣的に読書をしていてかつ経済学赤ちゃんの私にはまさにお誂え向きの本であると言える。
内容についてだが、金利の説明から始まり、ケインズ経済学や貿易の基本についての説明、さらには仮想通貨とはなんたるかまで広く触れられている。資本主義経済の概略を掴むのに良い構成と流れだと思う。第1章で苦戦しまくった「プロ倫」の話が出てきたときはこっちを先に読むべきだった…と後悔したものである。
さて、構成もいいがやはりこの本の良さは読みやすさにある。
「え、これってどういうこと?」と疑問が浮かんだ次の瞬間に具体例で噛み砕いて説明してくれるし、「これってこんな問題起きるんじゃないの?」と考え始めた次の行には別側面からのアプローチが始まっている。痒いところに手が届く、の連発なのである。
また、今まで自分の中では単語でしかなかった言葉に意味が伴うようになった。
個人的に中学受験経験者が陥りがちな問題として、単語を頭にインプットすることに躍起になるあまり意味を後回しにしてしまう点が挙げられると感じる。
中学受験界隈では小学4年生のあたりから単語の詰め込み教育が行われ、「小村寿太郎が関税自主権の撤廃に成功!」「富岡製糸場を建設!」ぶっちゃけ文字列さえ覚えたら点数が取れる。でも本人がそれで満足したら知識がそこで止まっちゃう。さらに悪いことに私はこの傾向が大学受験に至るまで続いてしまった自覚がある。
今更ながら自分が大学受験に失敗したのはこの問題が無視できないくらい大きかったからではないかとさえ思う。
その点この本では前述の関税自主権の問題や富岡製糸場を建設した経済的意義、世界史でなんとなく覚えていたブロック経済と保護貿易の関係もこれ以上わかりやすく説明することは不可能なのでは?と感じるほどに分かりやすく説いてくれる。脳の深いところまで知識が浸透していくような気がする。つまりは「すんごい理解できた」状態に簡単になれるのだ。
ほんでさ、この手のわかりやすい本って読んだだけで自分があたかも全知全能の神にでもなったかのような気になってそこで手を止めちゃうことが多いの。
しかし!この本は違う。最終章にちゃんとゆとりを持たせてる。
最終第7章では「資本主義はどこに向かうのか」と題して、縮退傾向にある資本主義経済を考察しているのだが、数学や物理学が絡んでくるのが面白い。やっぱりさ、色々な分野を学ぶとそれだけ視野が広がるってもんよね。中高の時もっと真面目に理系科目と向き合っておくべきだった。未来が大きく変わっていたかもしれない。
この本と出会うのがもう少しはやければと考えずにはいられなかった。出版されたの最近だけど。
とにもかくにも、これからもっと学びを深めていきたいと思える学問が一つ(なんなら複数)見つかったというだけでも大きな価値を見出せた本だった。個人的には学習レベルの高い小学6年生〜経済にある程度精通した大人まで幅広く楽しめる本である気がする。
それにしてもさあ読みたい本の数に読了スピードが全然追いつかん。生涯積読よ。